アラシノヨルニ


 黒く厚い雲が、水平線の彼方に沈みかけていた夕陽を覆い、辺りは一足早く夜が訪れたかのような、暗い闇に包まれていた。空は唸り、どす黒い雲の中に時折青い光が見える。
 浜風に揺られる長い黒髪の隙間から覗く、血が通っているとは思えぬ程の青白い肌に恍惚の表情を浮かべる女の顔を、轟音を伴って降り注ぐ稲光が照らした。
 「気持ちいいかい」
 女が相対する男に問いかけた。しかし男の口からはただただ呻く声がでるばかりだった。
 「さあ、楽しもうよ」
 女は微笑を浮かべ艶っぽく言うと、円を描くように右手を動かした。動きに合わせ、男は呻き声を荒げていくが、大きく呻いたのを最後に、身じろぎ一つしなくなった。果てたようだ。首は力なく項垂れ、腕は宙に垂れ下がり、次第に膝の力も抜け、砂に両膝を落として、前のめりにくずおれようとする男の肩に足を当てた女は、蹴りとばした反動で男の腹に深々と刺さった刀を引き抜いた。
 二度目の雷光が照らしたのは、苦痛の表情を浮かべて絶命する男の顔と、切り裂かれてむき出しになった無残な臓物であった。雷とともに落ちてきた大粒の雨が、血溜まりの池のようになった男の腹を洗い流していく。
 「イラつく雨だねぇ」
 抉り出された血と臓物の匂いが大雨によって掻き消されていくことに、女は苛立ちを顕にした。咽ぶような血の匂いは女にとって、はらわたを斬り刻む悦楽を超えた、至福の一時を味わうことのできる無二の快楽である。いかに相手の剣が拙くとも、快感で痺れるような悲鳴や怨言が聞けなくとも、どんな人間を斬っても愉しむことができるはずの時間を、雨に奪われ不愉快だった。女は浜を立ち去り、鬱積した怒りを晴らしに、町外れの屋敷へと向かった。
 女は名を蓮二郎という。人の斬り方を覚えた頃、彼女のために憐れな最期を遂げるという意味で「人斬り憐二郎」という皮肉った通り名で呼ばれるようになった。もとより名の無かった女はこの名を頂き、蓮二郎と名乗るようになった。蓮二郎が女とは知らずにつけられた名であるが、男の名のままでいるのは、男でありたいという想いも込められているようである。衣服も男物を羽織や袴をつけず着流しで着用し、髪を結わえたりはしない。男のように大っぴらに開け広げられた胸のふくらみが、蓮二郎が女である証拠でもあった。
 内臓を抉り出されて息絶えた男は、辻斬りだったようだ。突然蓮二郎に斬りかかり、返り討ちにあった。この小さな出島の町は今、彼のような者の横行を許す無法地帯となっている。先日、蓮二郎がこの町の奉行を斬ったためである。その日を境に、蓮二郎を用心棒として雇っている黄嵐組のヤクザ連中が好き放題に暴れ始め、食い詰め浪人などは強盗や辻斬りに明け暮れ、残された奉行所の者たちにはどうすることも出来ぬ状況になっていた。まさに蓮二郎の理想としていた、殺戮と恐怖が支配する混沌とした町へと姿を変えたのだった。
 しかし、蓮二郎は苛立っていた。昨夜、蓮二郎の雇い主である半衛門が斬られた。半衛門には恩も義理もなく、たとえあったとて気に掛ける蓮二郎でもないため、その事実は蓮二郎にとって瑣末なことであるが、事の始末が気に入らなかった。
 半衛門は、この町のゴロツキヤクザの集団、黄嵐組の組長だ。正式には未だ組長ではないのだが、実質的に黄嵐組を束ね、代表という立場にいるので組長と呼んでも差し障りない。義理人情の塊で、組員や町の衆にも慕われていたという先代組長を暗殺して組長の座に就いた、義理人情のかけらもない、まさしく外道という言葉がふさわしい人間である。金と力以外は何も信じず、またそれを他の誰よりも欲する欲深い男だ。女である蓮二郎を剣客として雇うなど、ある種型破りの人間でもある。血と殺戮を求める蓮二郎と、使えるものは使うという半衛門とが、互いに互いを利用しあう関係であった。
 半衛門が組長に就いてからは任侠道を歩んでいた組の方針は一変し、地上げや恐喝、強請りなどを日常的に行い、時には強盗や殺人をも犯し、また中毒性のある薬を大量に売りさばいて大金を儲けている。先代組長のように義理と人情を重んじるような輩は先代と同じ道を辿るか、逃げ出していったようだ。組と幕府の目付とは金でつながっており、多少の悪事を働いてももみ消されるため、いまやヤクザたちが我が物顔で往来を歩いている。
 これを取り締まらんとしていた奉行も、半衛門の号令の下に蓮二郎が斬った。町には法も秩序もなくなり、蓮二郎も黄嵐組も順風満帆という矢先、半衛門が斬殺された。下手人は分かっている。
 蓮二郎は歩を止めた。右手に竹林が生い茂り、左手には大きな屋敷を囲む、長い塀が続いている。黄嵐組の屋敷である。その門の柱にもたれて立つ男の姿があった。激しい雨と暗闇に視界を遮られて顔は確認できないが、今宵の嵐に気も止めず、己を待っていたのであろう男など他にはいない。半衛門を斬った下手人、宗三郎。
 宗三郎は蓮二郎と同じく、用心棒として黄嵐組に雇われた浪人者で、過去を知る者はいない。町で黄嵐組の組員に絡まれ、返り討ちにする姿を偶然目撃した蓮二郎が、一目惚れした男だ。鮮やかな剣さばきと、人を斬ることに躊躇いも後悔も見せぬ、蓮二郎が捜し求める理想の剣客だった。蓮二郎はその場で斬り合ってみたい衝動を抑え、宗三郎を黄嵐組へ来るよう誘った。二人で殺戮を繰り返し、町中に恐怖を生み出す姿を思い浮かべると、自然と笑いがこみあがってきた。宗三郎は二つ返事で黄嵐組に行くことを承諾した。頼もしい仲間というのとは全く異なる。半衛門からしてみればそうなるのであろうが、蓮二郎の願いは、二人で混沌の世をつくり、存分に楽しんだ後斬り合うことであった。
 しかし、蓮二郎の宗三郎への認識は誤りであった。宗三郎は何事にも無欲な人間だった。黄嵐組の行う悪事を嫌ったり、反対したりや遠ざけるなどということはないが、進んで行ったり、過剰な暴力を振るったりもしない。ただただ受けた命令をこなすだけであった。何事にも無関心なのである。人を斬ることに動じないのではなく、無頓着なのだ。躊躇わぬ心は、蓮二郎のそれとは似て非なるものである。欲の塊である半衛門が、欲を出さぬ宗三郎を疎ましく思ったとて不思議なことではない。昨夜、宗三郎を斬るように命ぜられた。宗三郎が如何な者であれ、その剣と情の無さは、蓮二郎が望む理想の相手だ。思い描いていた順序とは違えども、ようやく斬り合えると思うと心が躍った。しかし昨夜、宗三郎と会うことは出来なかった。
 明日、先代の一人娘が正式に二代目を襲名する披露式が執り行われるらしいと、町の衆が口々に噂していた。先代である父のように、義理や人情を大事にという考えにこだわる娘で、町の人間に多少の安堵が生まれていた。どうやら、宗三郎はその娘と結託していたようだ。いつの間に二人が手を結んでいたのか、蓮二郎には知る由もない。知ろうとも思わない。しかし宗三郎ほどの男が、理想ばかりを口にする小娘に力を貸したことが、蓮二郎には堪らなく気に食わなかった。

 宗三郎が先代組長の娘、おゆうを初めてみたのは、半衛門を激しく非難する姿だった。歳は十六ほどで、幼さは残るものの、顔立ち端正な美しい娘だ。半衛門の非人道的な金儲けをやめるよう、怒鳴りつけるような強い口調で言うものの、半衛門はもとより聞こうとしていなかった。
 「何なんだいあの薬は。あれを飲んだ人はみんな正気じゃなくなっちまってる。あんなものを売りつけるなんて、どうかしてるよ」
 「いいじゃあねえか。あいつらはアレで嫌なことぜーんぶ忘れて、気持ちよくなれるんだ。それで俺に金を払ったって、罰はあたらねえだろう」
 語尾には笑いが混じり、慈善事業だといわんばかりの開き直りようだ。これを聞いたおゆうは辛抱たまらず、半衛門の胸倉を掴み、更に語気を強めて言った。
 「何が気持ちよくさ。薬が切れたら苦しみだすんだ。悲鳴を上げて、頭が痛いって」
 「だったらまた薬を飲めばいいだけだ」
 言い終えると同時に、甲高く小気味のよい音が響いた。おゆうが力一杯に半衛門の頬をはたいていた。
 「おお痛え。だが俺の嫁になるにはこれくらい気が強くなくちゃあな」
 どうやら半衛門は先代の娘であるおゆうを嫁に迎えて、正式に二代目を襲名し、更には先代派の組員たちをも無理やり従わせようという腹積りらしかった。
 「冗談じゃない。あんたと夫婦になるくらいなら、死んだほうがマシさ」
 心の底より拒絶していることが語調からも見て取れる。胸倉を掴んでいた左手を突き飛ばすように放し、足早に去っていった。
 厄介なところへ来てしまったと宗三郎は思った。宗三郎は面倒なことが嫌いであった。幼少の頃より剣術や勉学は人より優れていたが、人付き合いが大の苦手であった。そのため周りからは疎んじられ、優れた能力も妬みの対象となっていた。やがて父が病で死に、後を追うように母も死に、己を縛るものが何もなくなった翌朝、故郷を捨てた。家督を継ぐのも、妬みを受けるのも面倒であった。
 以来、さまざまな町を見てきた宗三郎だが、この町は異常であった。町中を歩いているといきなり通行料をせびられ、断ると刀を向けられた。仕方ないので斬ったが、今度は刀を腰に提げた女に人斬りを褒められた。その蓮二郎という女が、用心棒の仕事があると言って連れてきた黄嵐組は、おゆうと半衛門のやりとりからするに問題が多そうで、内外に敵がいる様子だ。路銀を稼ぐためしばらくは身を置くが、面倒な事をおこさないでほしいと考えていた。
 半衛門は用心棒を雇っても身辺の警護などはさせなかった。よほど剣に自信があるのか、もしくは寝首を掻かれることを恐れているのであろう。宗三郎に回ってくる仕事は、借金の取立てや薬代の取立てなどであった。ただし、ごねたら斬れとお達し付である。命令は素直に従ったほうが面倒は少ないと思い、何人か斬った。
 ある夜、宗三郎は蓮二郎と数名の組員とともに、町の中心にある神社にいた。今夜ここに来る男を斬れという命令だった。黄嵐組の商売敵ということだ。たかが商売敵の暗殺には、大仰な人数であった。確実に仕留めねばならぬということだろう。やがて二人組みの男が現れた。二人が境内の中心まで来たところで、蓮二郎と組員たちが抜刀し、二人を取り囲んだ。宗三郎も蓮二郎の横で構える。
 「見つけたよ。あんたが死ねば、この町はさぞ楽しいことになるだろうねえ」
 蓮二郎が甲高い声でさも楽しげに男に声をかけた。
 「蓮二郎だと。おのれ、半衛門の差し金か」
 「お下がりください。ここは私が」
 用心棒と思しき大柄な男が刀を抜き、宗三郎の前へ出てきた。しかし周りは囲まれ、逃げようにも逃げられないと判断したか、もう一人の男も刀を抜き、応戦の構えをした。宗三郎と蓮二郎以外の組員は、相手を逃がさぬための壁役であるらしく、斬りかかろうとはしない。宗三郎は向かい合う大柄の男を、蓮二郎がもう一人を相手にすることとなった。
 大柄な男は、この圧倒的不利な状況ですら取り乱すことなく、また怒りで我を忘れることもなく、冷静に剣を振るっていた。道場で習うような型にはまった剣筋と、未だ発展途上の荒々しい我流剣法を織り交ぜてつかう、なかなかの達人である。宗三郎は長く放浪の旅をしているが、これほどの使い手の相手は初めてだった。力強く振り下ろされる、上段からの一撃は、刀で受ければ刀ごと斬られかねないので、剣筋を読んでかわすしかない。かわした後に間髪いれず反撃を見舞うが、巨体に似合わぬ素早さでかわされる。このようなことを幾度か繰り返していると、蓮二郎が相手をしていた男の呻き声が聞こえた。その声に平常心を奪われ、後ろを振り返った大柄な男の背を袈裟懸けに斬りつけ、正面に向き直ったところで心の臓を一突きに貫いた。しかし男はなおも刀を振り上げて抵抗しようとしたので、懐深くもぐりこみ、鍔が胸につくくらいに刃を刺しこむと、ようやく男は絶命し、刀を落とした。
 蓮二郎を見やると、男の腹に刺した刀を操り、内臓までをもズタズタに斬り裂いていた。周りで見ている組員も、そのあまりに残虐な光景に目をそらしている。事切れた男を蹴り飛ばして刀を引き抜くと、恍惚とした顔を宗三郎に向け、上気した艶っぽい声で話しかけた。
 「そっちも済んだようだね。楽しめたかい。ふふふ。こいつはね、いつも正義だの大義だのと大層なことを口にしてるお偉いさんなんだけど、ほら……腹を開いたらこんなにも臭い。腹の中では何を考えてたんだろうねえ」
 蓮二郎は大きく息を吸い、臭いを堪能した後に高笑いをはじめた。はじめて目の当たりにした蓮二郎の狂人ぶりには、宗三郎もおぞましさを感じずにはいられなかった。
 翌日、宗三郎は半衛門から二十両の報酬を受け取った。今までに見たこともない大金である。昨晩の二人の様子や、暗殺に加わった組員の数から見ても、ただの商売敵ではないということは感じてはいたが、この金額を見て確信にかわった。おそらくはこの町の奉行というところだろう。
 「面倒な事になった」
 半衛門の部屋を出て、改めて自分のおかれた状況を思い、ため息をついた。奉行を殺したのであれば、無事にこの町からは出られまい。この小さな出島の出入り口は、本島との間にかけられた橋と、港に出入する船だけである。その二つが閉じられれば、逃げ出すことは叶わない。また、町にいてもいつ捕方が来るものかわからない。最悪の場合、半衛門に捕らわれ、奉行殺しの下手人と差し出されかねない。目付とつながっているという半衛門のことであるから、後者の可能性は高いとみたほうがよさそうだ。
 宗三郎が思案をめぐらせていると、外がなにやら騒々しい。もう捕方が来たかと身構えたが、現れたのはおゆうであった。引きとめようとする組員を払いのけ、廊下で立ち尽くす宗三郎には目もくれず、半衛門の部屋の襖を乱暴に開き、半衛門に怒鳴りつけた。
 「半衛門、あんた、お奉行様を殺しちまうなんて、何を考えてんだい」
 宗三郎の予想は当たっていたようだ。しかし、半衛門は白々しくも素知らぬふりをした。
 「これは人聞きの悪い。俺は何もしちゃいねえよ。奉行が死んだなんて初耳だぜ」
 「惚けるんじゃないよ。あんな無残なやり口、蓮二郎以外に誰がいるってんだい」
 「そうか、蓮二郎か。あいつは人殺しが好きだから、勝手にやったんだろうよ」
 卑しい笑い声を上げる半衛門に、埒が明かぬと背を向けるおゆう。半衛門はその背に向けて、低くしわがれた声をすごませて言った。
 「俺はこの組を日本一の組にする。そして次郎長を越える日本一の大親分になる。俺には黙って従っておいたほうが身のためだぞ、おゆう」
 「冗談じゃないよ」
 おゆうは振り返りもせずに言い、その場を後にした。
 宗三郎は奉行所のものに見つからぬよう町を見回った。すると予想通り、橋と港は閉められ、目付が自分を捕らえようと動いていることもわかった。自室のある長屋の周りには大勢の同心が潜んでいた。この最悪の状況を打開する策はある。が、一人ではどうにもならぬ。宗三郎は一か八かの思いで、おゆうに相談を持ちかけた。
 おゆうは町の中心からやや東にある先代組長が遺した家に住んでいた。半衛門に手を出させぬよう、先代派の組員が四六時中おゆうを守っている。間違っても半衛門の用心棒が顔を出してよい所ではない。宗三郎は拘束された状態で、奉行を斬った件と半衛門にはめられたらしいことをおゆうたちに話し、ここへ来た本当の理由を語った。
 「俺は半衛門を斬ろうと思う」
 半衛門を斬り、奉行殺しの下手人に仕立て上げようというのだ。半衛門ならば、皆が納得するであろうことは目に見えている。ただし、一人では骨が折れるというわけだ。
 「図々しい願いだが、力を貸してほしい」
 おゆうらにとっても悪い話ではないはずだが、信じられるか否かが問題であった。
 「あんた、強いね」
 いつもの威勢はどこへやら、おゆうがポツリと呟いた。
 「あたしは半衛門が父ちゃんを殺したのを知ってた。知ってたけど、何もできなかったんだ。あいつが怖かったんだよ」
 「お嬢……」
 自分の弱さが悔しくて、腹が立って、涙も出ないおゆうのかわりとでもいうように、組員の一人が涙ぐんだ。
 「お奉行様が亡くなった今、半衛門をこのままにするわけにはいかない。こっちこそ、あんたの力を貸しておくれよ」
 その翌晩、半衛門追討は決行された。蓮二郎が宗三郎暗殺の命を帯びて出て行ったと連絡があった。やるにはまたとない好機であった。昨日からのおゆうらの扇動により多くの者が決起した。
 「半衛門。先代暗殺及びお奉行様暗殺、及びこれまで働いた数々の悪行、許し難し。先代組長が娘、おゆうの名を持って成敗する」
 半衛門を守ろうとした者はわずかに二名。二十を超えるおゆう勢の前には無力であった。金目当てで組に入っていた者たちは、驚いて逃げ出していったようだ。半衛門は必死の抵抗を見せたが、宗三郎に剣を受け止められ、鍔迫り合いになったところで周りにいた者たちに滅多刺しにされた。
 無事、半衛門を討ち取った喜びも冷めやらぬまま、組員たちは血で汚れた屋敷の掃除を始めた。すぐにでもおゆうの二代目襲名をするという。夜が明けたら町中に触れを出し、その翌日に披露式という段取りらしい。
 明くる日、宗三郎は屋敷の門前で立っていた。披露式の準備で慌ただしい屋敷内の様子など露知らず、その場を離れずに一日を過ごした。残暑の厳しい初秋に、竹林から吹く涼やかな風を浴びながら、ある者を待った。陽が沈みかけた頃、雲行きの怪しさに外に出ていた者は皆戻り、屋敷内では宴会の準備を始めているのであろう。時折笑い声が聞こえてくる。夕陽が完全に雲に覆われ、雷鳴が轟き、空は嵐の様相を呈してきた。二度目の雷と同時に、雨が激しく降りだした。宗三郎は雨に濡れながら、蓮二郎が来るのを待った。

 「捜したよ」
 雨が泥を叩く音の中に、甲高い声が響いた。
 「待ちくたびれた」
 宗三郎が声に応える。二人は向かい合い、同時に抜刀した。蓮二郎は右手で刀を持ち、片手に構えた。刀には鍔が無く、刀も構えも、もとより守りを捨てている。宗三郎は脇に構え、蓮二郎の動きを窺う。両者とも、ピクリとも動かず睨みあい、しばしの間雨だけが降り続けた。蓮二郎が痺れを切らしたように、刀の切っ先を宗三郎に向け、話しかけた。
 「あんた、何だってあんな小娘に力を貸したんだい。あんたはもっと、面白い奴だと思ってたんだけどねえ」
 「貸したんじゃない。借りたんだ」
 「ふん、どうでもいいさ」
 事情を知りたいわけではない。段々と理想から遠のいていく宗三郎に、文句を言っただけである。蓮二郎は空いた手の平で雨を受け、上ずったような声で話題を変え、語りだした。
 「どうだい、この雨、この空、まるでこれから起こることを予兆したかのようじゃないか。あの小娘は組を継いで、町を守るんだろう。だからあんたを斬って、小娘も斬る。あたしはねえ、めでたしめでたしで終わるような話が大嫌いなのさ。あんたはあたしを斬ってどうするんだい」
 「半衛門を斬ったついでだ。半衛門の首とともに奉行所に差し出すさ。奉行殺しは半衛門が裏で糸を引いて、あんたが斬ったって誰もが知っているからな。そして晴れて無罪で町を出る」
 建前であった。おゆうへの恩返しなどと奇麗事を言って、自分の行為を正当化したくはなかった。あくまで、自分のために剣を振るうのである。
 「ふふふ。あんた、やっぱり面白いじゃないか」
 「それはどうも。だが俺は大団円は嫌いじゃない。それに、嵐の後は快晴だ」
 宗三郎は泥を蹴り、一足で間合いを詰めると、横薙ぎに刀を振った。しかし蓮二郎が刀を上から合わせ、刃を外へといなされた。雨で地面がぬかるみ、踏み込みが足りなかったようだ。かわした蓮二郎も間合いが遠く、死に体を生んだ刹那に斬りつけることができなかった。
 一歩分の距離をとり、中段に構える宗三郎。蓮二郎は眼前に向けられた切っ先を、刀を腰の後ろから鞭のように振るって払いのけ、腕に引かれるようにして跳躍し、体を横に捻り、頭上高くから振り下ろした。宗三郎は刀でこれを受け止めたが、一回転の反動と全体重を乗せた刃は、女の細い腕から出されたとは思えぬ衝撃で、両手がひどく痺れている。ボロボロのなまくら刀が折れなかったのは奇跡ともいえる。鉄同士が強くぶつかり合った鈍い音が、耳に残った。蓮二郎は着地と同時に、みぞおちめがけ鋭い突きを放った。これまで数え切れぬほどの人間を、無残に屠ってきた突きであろう。これだけはくらってはならぬと上半身を左に捻り、間一髪わき腹を掠めた程度で済んだ。そのまま突き出された蓮二郎の腕を右手で引き、足を払って投げた。蓮二郎は泥の上で受身を取り、すぐに構えなおした。
 掠っただけと思っていた突きは、意外と深かったらしく、白かった着物が赤く染まっていた。蓮二郎はいまだ余裕の表情で、宗三郎の血が着いた刀の切っ先を舌で舐めてみせた。宗三郎は傷口を隠すように、左脇に構えた。泥に足を取られぬようにしながら、ゆっくりと距離を詰める二人。攻撃の間合いを半歩の距離まで詰めると、宗三郎は意を決し、一歩踏み込んだ。蓮二郎から突きが撃たれると同時に、逆脇からすくい上げるように刀を振るった。両者の刀が摩擦音をあげる。宗三郎の刀は蓮二郎の突きの内側に入り込み、蓮二郎の右わき腹から左肩にかけてを斬っていた。蓮二郎が背から倒れていくのが、ひどくゆっくりに見えた。
 「あは、あはははは、斬られた、斬られた。あはははははははははは」
 大の字を描き仰向けに倒れた蓮二郎が高笑いをした。呼吸は荒く、声を出すのもつらそうだ。時折咳き込み、胃から吹き出た血を口から吐き出していたが、なおも笑っていた。
 「蓮二郎、憐れな女だ」
 両親の死ですら何も感じなかった宗三郎が、生まれて初めて他人に情を移した蓮二郎の狂人ぶりに、この世への憎悪を感じたからだ。全ての人間と、女である己への憎しみを。
 「あたしは、しあわせだよ。楽しい、まま、逝けるんだ、から」
 蓮二郎は息も絶え絶えに、宗三郎の切れ長の細い目を見た。他人から憐れみを受ける覚えはない。胸を誇るように言うと、笑い声も止まり、ついに絶命してしまった。吐いた血が口紅のように、白く美しい顔の上で鮮やかにきらめき、おぞましくもやさしげな微笑を浮かべて息絶えていた。
 雨は夜明けまで降り続いた。



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